コラム

2018.11 新京都八景…復活した琵琶湖疎水船、船上から眺める色づく紅葉

琵琶湖疎水船 65年の時を経て琵琶湖疎水船が復活した。明治18年、東京遷都によって寂しくなった京都の活性化を目指して取組まれた琵琶湖疎水事業は、5年後の明治23年に完成した。京都の水を確保すると共に、電力エネルギーの供給や物資の運搬にも大きな役割を果たし、維新後の京都の近代化に貢献してきた。が、戦後復興によって交通手段が多様化し、特に自動車による運送が盛んになるに従い疎水船の運航は廃れ、昭和26年の砂利運搬が最後になっていた。
今は、蹴上のインクラインと疎水公園脇の船の搬送台車がその名残を伝える(下段写真)。

今年の春から観光遊覧船として復活した琵琶湖疎水船は、大津市の第一閘門と京都市の蹴上間7.8kmを約35分間で遊覧する。自転車以上の速さで、なかなかのスピードである。琵琶湖と京都市の間にある東山の如意ヶ嶽(大文字山)の麓を通るので幾つかのトンネルを経るが、その暗さと抜け出た時の明るさが、色づき始めたモミジを際立たせる。普段より一段低くなった視線が、両岸を見上げる形となって、一層艶やかに季節を感じる。そして、トンネルの出入り口には伊藤博文や三条実美等の明治の元勲の扁額がかかげられている。また、乗下船する蹴上には今も稼働している水力発電所や、京都御所への送水ポンプ室(とは言え重厚な西洋建築)などが多くあり、日本の近代化の足跡を物語っていて興味深い。

船台車 疎水の流れそのものは、岡崎公園の外縁を巡って夷川疎水となり、TVドラマの聖地…南禅寺の水路閣から北白川の哲学の道を経て、洛北へと水路を延ばし鴨川の底をくぐって堀川のせせらぎとなる。分流の祇園の白川は吉井勇の枕の下を流れて、鴨川に注ぐ。いずれも市内有数の桜の名所であり、市民の憩いの場でもある。
しかし、住宅街では暗渠になってしまった疎水も多い。疎水船の復活が観光遊覧に止まらず、街路の緑化事業のように、暗渠の覆いを取り払って清流の流れる街を!そんなきっかけとなることを願いたい。(M)